[Works] アーティスト、ジョー・デイヴィス
October 28th, 2011 Published in こんな作品つくりました | 1 Comment
このコラムでは、これまで1回ごとに1作品を紹介してきましたが、今回は特別編として、ジョー・デイヴィスさんのこれまでのプロジェクトをまとめてご紹介します。
10月、「バイオアート」の先駆者とよばれるアーティスト、ジョー・デイヴィス(Joe Davis) さんが来日していました。
さて、この「バイオアート」という言葉を聞いたことがありますか?
「バイオアート」は、英語で「生命」「生」を表す接頭語のバイオ(バイオテクノロジーといったように使われます)とアートが組み合わされた言葉です。
1990年代の後半から、生物学や遺伝子工学をつかったアート作品やプロジェクトが発表され始めています。「科学」や「生物」と、「美術」を、学校の教科のようにはきっちりと分けることが出来ない、その両方の分野を横断するような作品です。作品の実現のためには、アーティストと専門的な知識を持った研究者との共同作業が必要なこともあります。日本では、2010年10月に「バイオアート」に関して、研究や議論を深めるサイト(http://bioart.jp/ )が立ち上がったばかりです。
この言葉自体が、まだまだ知られていない、比較的近年使われ始めている言葉であるように、その定義や、捉え方・考え方も、今後、そこから生まれる表現も含めて、変化していくことが想定されます。そして、その作品は、美術館に展示されているからアート作品であるという捉え方が通用しないタイプの作品だともいえるでしょう。それは、「バイオアート」で括られる作品やプロジェクトが、現在の美術館や博物館で展示することが難しいような素材(生物の組織やバクテリアなど)を扱うことを伴うこともあるからです。さて、この一筋縄では簡単に捕らえられない新しい表現領域が「バイオアート」です。ジョーさんはその先駆者と称されていますが、一体どのようなプロジェクトを手掛けてきたのでしょうか。
ジョーさんは、日本で紹介されたことがほとんどありませんので、初めて名前を知った方が多いと思います。しかし、今から30年も前に、若かりし日のジョーさんの活動を取材し、日本に紹介した人物がいます。1960年代より芸術と科学の領域を横断するような先駆的な表現やプロジェクトに注目してきた坂根厳夫さんです。坂根さんの活動は、実に多岐にわたりますので、半世紀に及ぶメディア・アートの歴史をひも解いた自伝的な書籍『メディア・アート創世記』を、ぜひ参照いただきたいと思います。
このお二人が、1982年の取材以来、30年ぶりに東京で再会を果たすというので、Departure 編集部も同席させていただきました。
坂根さんは当日、ジョーさんをとりあげた1982年の記事を持参してくれました。その記事を見ながら、回想を交えた昔話が始まりました。ジョーさんが、MIT(マサチューセッツ工科大学)の高等視覚研究センター(CAVS・Center for Advanced Visual Studies)のフェロー(研究員)になったばかりの頃にさかのぼります。
以下、1982年9月8日付、朝日新聞『拡大するイメージの世界』から抜粋。
〝MITの高等視覚研究センター(CAVS)を訪ねたら、つい最近新しいフェローになったというジョー・デービスに会った。フロリダの出身で、『宝島』に出てくるシルバー船長のような一本足の義足つけて、忙しく歩きまわっている。(中略)1982年5月にスペース・シャトルのペイロード(積み荷)計画に、初めて芸術家として、芸術的イベントのための積み荷搭載を許可されたというので、センターの中では、話題になっていた。(中略)「最初の提案をはじめてから5年かかりました。単なる芸術作品は認めないというので、タゲレオ(タゲレオ写真の発明者)をはじめ、いかに科学的発見のいとぐちになったかという歴史的事実をいくつももち出して、やりあったのですが・・・・。でも幸いにNASA自体でやろうとしていた高層のオーロラ現象の研究にも、有望な比較研究の資料をもたらすだろうというので、認めたらしいんですね・・・。」“
この記事には、NASAとの《人工オーロラ》プロジェクトと、稲妻の色を変えるという《トライトン》という作品がドローイングとともに紹介されています。それを見たジョーさんが突然i-Phoneを取り出し、「今年とうとう実現に近づいたんだよ」と写真を差し出しました。
驚いたことに、30年前に構想されていた装置が今年になってようやく具現化し、2月に開催されたワシントン大学での個展で、1/10モデルの装置が発表されたということでした。
web上で展覧会の詳細と、その装置の写真を見つけることが出来ます。
展覧会
『Resonance: Nature, Glass, and Standing Waves in the Art of Joe Davis』
会期:2011年2月1日~19日
会場:ワシントン大学
発表された縮小モデルの装置は、記事のドローングのような形状をしていますが、コンセプトは大きく変更されています。 雷の色を変えるということではなく、落雷による大気中の窒素を宇宙まで届くレーザービームに変換する装置です。そしてこの装置は、ジョーさんの生まれ故郷であるミシシッピー沿岸 のガルフコーストを襲った台風の犠牲者のためのモニュメントとして制作されました。
1982年の記事は、下記のテキストで締めくくられています。
“いままでのセンターの静かな空気の中に、この31歳の青年はガラリとちがった活気を与えていた。”
「いままでのセンターの空気」を、ジョーさんがCAVSという研究施設に入るまでの経緯を知ると、少し想像することが出来ます。
この研究機関に所属するアーティストに興味をもったジョーさんは、当時、所長であったオットー・ピーネさんに会うためCAVSに乗り込みます。もちろん、所長と会うには予約を取るべき研究施設ですので、門前払いとなりますが、めげずに3分会わせろ!と、入口でごねていると、ついには警察を呼ぶ騒ぎになりそうなところで、 「じゃあ3分間、君に時間をあげよう」と、オットーさんが登場します。そこで、彼は45分間、実現したいプロジェクトを直接プレゼンテーションし、CAVSを出るときには、研究者のポジションをしっかり手にしていたといいます。
これまでのルールや規則を打ち破りながら、常に自らの信念を貫き、創作の可能性を模索するジョーさんの姿勢が現れたエピソードです。
さて、ジョーさんをCAVSに招いたオットーさんが、現在開催中の神戸ビエンナーレの招聘作家として、兵庫県立美術館の「ひかり いろ かたち」展に参加しています。1960年代に、日本とドイツでほぼ同時期に発生した前衛美術のグループ「具体美術協会」と「ZERO」に焦点を当ていて、オットーさんは「ZERO」の創始者であること作品を展示しているということでした。このオットーさんは坂根さんとも非常に強い繋がりがあります。坂根さんは、1982年よりアルスエレクトニカを訪れ、長期にわたり日本に紹介してきましたが、そのきっかけは、オットーさんが1982年のスカイアートのプロジェクトを見に、リンツに来ないかという提案だったそうです。今回の来日では、残念ながら直接会う機会はなかったようですが、電話で話をし、近況を報告しあったそうです。
すると、ジョーさんが再びi-Phoneを取り出し、5月にとったというオットーさんのスカイアートの写真を見せてくれました。MITの150周年記念イベントとして、1960年代に発表されていたスカイアートの再現が行われたということでした。
今回の来日で、ジョーさんは多くのワークショップやレクチャーを関東・関西を中心に行いましたが、ジョーさんのドキュメンタリー映画「HEAVEN + EARTH + JOE DAVIS」も、来日を機に日本に紹介されました。前述のエピソードはもちろん、近年の10年間の活動を凝縮して知ることが出来るこの映画の中には、ジョーさんがこれまで手がけてきた作品が登場します。例えば、膣の収縮運動を宇 宙に送るプロジェクト、そして蛙の足を切り取り、その筋肉と電極を結びつけて動力とし、飛行機を飛ばすプロジェクトなど、びっくりする内容が紹介されています。
話が尽きない中、坂根さんから一つの質問が投げかけられます。
坂根:「かつては、スペースアートやコズミックアートと言われる作品を手掛けていたように思うのですが、現在はバイオテクノロジーを使ったような作品に興味が変わったのですか?」
ジョー:「表面だけを見ているとまるで別の分野を扱っているようにみえるけれど、本質は変わってないんですよ。宇宙をとらえようとしても、分からないことが多いように、生物というミクロの世界であってもまだまだわからないことだらけだと思います。スタンスは全く変わっていませんよ。」
ジョーさんが手がける「バイオアート」のプロジェクトや新作の企画は、いよいよ次回ご紹介します。
*本来日および来日中の活動は、科研費 基盤研究C「ポスト・ゲノム時代のバイオメディア・アートに関する調査研究」 (22520150)の助成を受けています。
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ジョー・デイヴィス(Joe Davis)
アーティスト、哲学者、科学者、マサチューセッツ工科大学およびハーバード大学の客員研究員
彼の研究や芸術は分子生物学、バイオインフォマティクス、「宇宙アート」、彫刻、ガラス工芸と多岐にわたる。科学と芸術の域を超えた活動はアメリカ国内やヨーロッパで注目され、「バイオアートの父」と呼ばれる。
坂根厳夫(さかねいつお)
IAMAS(情報科学芸術大学院大学、国際情報科学芸術アカデミー)名誉学長(2003.4.1. – )
1930年、青島生まれ。東京大学建築学科卒、同修士。1956年、朝日新聞社入社。佐賀支局、東京本社家庭部、科学部、学 芸部記者、同編集委員を経て、1990年定年。同年4月から1996年3月まで慶応義塾大学環境情報学部教授。1996年4月から岐阜県立国際情報科学芸 術アカデミー学長、2001年4月から情報科学芸術大学院大学学長を兼務、2003年3月末同アカデミー及び大学院大学退官。1970 – 71年ハーヴァード大学ニーマン・フェロー。新聞記者時代には芸術・科学・技術の境界領域をテーマに取材・執筆、評論活動を行ない、慶応義塾大学ではサイ エンス・アート概論、環境芸術論、マルチメディア・ゼミなどを担当。IAMASではメディア文化特論、メディア美学を担当。1976年以降、芸術・科学・ 技術の境界領域の展覧会企画プロデュースに数多く携わる。ISAST(国際芸術・科学・技術協会)機関誌『Leonardo』共同編集者(1985 – 1996)同名誉編集委員(1996 – )。