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[Works] 江口悟 《Twins》

May 4th, 2012 Published in こんな作品つくりました

展示室に入ると、どこかで見たことがあるような、一見ありふれた日用品が、ぽんぽんと置かれている。

でも、それはすぐに「一見」であることに気がつく。どうやらそれらは本物ではなく、作られたものだ。「全部紙で作っているのか?」「本当は本物もまじってるんじゃないのか?」と、そんなことを思いながら、次の展示室に進んでみると、先ほど見たばかりのようなアイテムを見つけることになる。

タイトルは《Twins》。

《Twins》 photo by Tanaka Yuichiro

《Twins》 photo by Tanaka Yuichiro

隣り合わせの展示室に展示されたアイテムは似ている。でもタイトル通り「双子」は同一人物ではないように、《Twins》な2つの部屋は微妙に異なっているようだ。見ればみるほど、そして違いを探そうと必死になればなるほど、多くの要素と差異に意識が散漫になり、かえって個々の印象が薄まってゆく。鑑賞者の意識をすり抜けるような、そんな飄々とした空間を作りあげたのが、江口悟さんだ。

昨年の横浜トリエンナーレの喧騒中、Bank Art 会場から少し離れた神奈川県民ホールギャラリーでは『日常/ワケあり』という展覧会が、昨年10月から一ヶ月間開催されていた。江口さんは3週間、横浜・黄金町に滞在し、展覧会のための制作を行った。江口さんは、1998年にアートの勉強のためにニューヨークに渡って以来、ニューヨークを拠点に活動しているアーティストだ。江口さんの制作にまつわる意識と《Twins》 のことを聞いてみた。

《Twins》 より photo by Tanaka Yuichiro

ニューヨークではアートスクールに通われたそうですが、どんな作品を制作されていましたか?

アートスクールのドローイングの授業がとても好きでした。ペインティングの授業ではマテリアルの話が多かったのに対して、ドローイングの場合は、アイデアの発見や形成に結びついたと思います。その頃は、紙に鉛筆で描いたドローイングをキャンバスの上にペインティングとして成立させようと試みていたのですがうまくいかず、気がついたら、立体や写真などを組み合わせた作品が自分にとって自然な表現になりました。ドローイングはいろいろな表現方法に繋がるアイデアの基盤で、 一つのアイデアを追求する表現方法や手段はいくつかあっていいと思っています。実際自分の作品はドローイング、ペインティング、立体等、いろいろな方法が同時に重なって出来ているが一つの特徴です。

ペインティングとドローイングを全く別の方法として捉えられていることが分かりました。ドローイングが現在の作品にどのように繋がっているかを聞かせてください。

ペインティングとドローイングの境界線は、なくてもいいと思うんですけど、自分の場合は、ドローイングの次のステップはペインティングではないことが分かりました。ドローイングでは、目で見たものを、鉛筆等を使い紙の上に感覚的に描きます。そうすると大抵描かれたものは歪みが出たり、簡略化されたりします。モチーフと描いたドローイングの間には、必ずズレが生まれ、ある意味【別の物】となり、同じ物から全く違うもの見えてきます。そのズレは、描く人によって違いますし、同じ人であっても天気や体調など、描く状況によって変わります。そして、今回の作品内のオブジェはそのドローイングが平面でなく立体として表現されたものなのでズレが生じ、最終的には実際のモチーフが簡略化したり抽象化して出来ています。ニューヨークに来て一般的な西洋絵画の認識は、ペインティング=メディウム=マテリアル=オブジェというように、ペインティングの中の空間は、絵の具が積み重なって成立するというの感じがしました。つまり絵画のはなしは、マテリアルの話、どうやって絵が塗られているとかそういう話が多い印象を受けました。自分はそのことに興味が湧きませんでした。それに対して日本の絵画などでは、画面の何も書かれていない余白を、空間として自然にとらえていて、物と物との空間に対する意識を強く感じました。以前から、画面上の白紙の部分に生まれる空間、モチーフとモチーフの間に出来る余白にとても興味がありました。興味を持った理由を振り返って考えてみると、その空間に対する意識は日本で生まれ育った自分にとってごく自然な感覚なのにも関わらず、日本の外で生活する中でその感覚は当たり前の物ではなくなってしまったからだと思います。そして、その余白を紙の上だけではなく,実際の展示空間、そしてそれ以外の普段身近に接している生活空間、屋外空間全てに対しても考えるようになりました。

《Twins》より photo by Tanaka Yuichiro

今回の展覧会『日常/ワケあり』の展示にあたって、制作に関するリクエストはあったのですか?

以前から制作しているオブジェを与えられた展示空間を使って,一つの作品として見せるということだけで、特別なリクエストはありませんでした。つまり僕にとっては空間そのものが作品ということになりました。僕は、幼い頃から近所や時には少し遠出をしたりして、普段行かない場所を一人で探索するのが好きでした。今振り返ってみると、これが自分のアートに対する興味でありルーツだと思います。展示空間に入ることは、自分の知らない場所に行くのに似ていると感じるからです。2007年頃から制作している空間を使った作品では、自分の知らない空間、つまりギャラリーや美術館のスペースをどのようにして自分の体を使って体験し、自分の体の代わりに身の回りのオブジェを使いながらその空間を解釈するのかということに興味がありました。例えば、今回の作品展示も、まずその空間が空っぽな状態から、室内の部分を自分の知っている場所や物に繋げるということから始めました。何もないときに感じる展示空間の不思議さをどこかの場所につなげながら、それをどうやって更に際立たせるかというのを考えました。今回与えられた展示室は、ひとつの空間に壁で隔てられていて、ほぼ同じ大きさの部屋が2つあります。これだけで、作品は半分完成したような感じがしました。「2つの似たような部屋」この言葉から、いろいろなことを想像できると思います。

《Twins》 より photo by Tanaka Yuichiro

今回の作品《Twins》では、初めの部屋の印象を持って、次の部屋に進むと、前の部屋の要素が含まれていることに気がつくものの一緒かどうかの判断がつかない。思い出そうにも詳細が思い出せない。そして今度は内容を記憶したつもりで初めの部屋に戻ってみると微妙に何かが違うようだけど結局はっきり違いが分からずそもそも違ったのかどうかがわからくなってしまう。そんな感じがしました。壁に貼られた養生テープと紙で作られた養生テープは印象的でした。

自分の作品では、 普段の生活に隠れている不思議な出来事や瞬間を制作する過程で再現できればと考えました。そういう感覚を作品の内に創り出すことで何かそこにない別の物が見えてくればと思います。そしてそこからは、見る人それぞれが解釈できればいいと思います。

この展示は、制作したオブジェを特定の場所に並べることで成立しています。ですが、そのオブジェは、立体のドローイングとしての個々の表現ではなく、そこにないものを表現するために作られています。ある人から、僕が作るオブジェそのもの自体の存在感のなさと、ところがそれがいくつか集まったときに出てくる存在感について指摘されたことがあります。確かに、一見変わった物でもそれがいくつか並べられるとその状況、空間は、不思議と信じられるようになっていくということは、現実にもあることかもしれません。それどころか、現実には、そういう個々の不思議さに気づかないことも方が多いのかもしれません。
養生テープは、制作の過程で使っていたもので、ある作業の途中の状態を再現しています。 それは、自分の思考過程を客観的に覗かせる瞬間です。このような状態は、普段の生活の中では、良くある風景で普段は、室内や野外の風景に溶け込んでいて意識されないんですけど、それを切り取って展示スペースに持って行くと少し変わった見え方ができます。つまり普段毎日見過ごしているようなごく普通のものから何かを引き出せないかと考えています。例えば、一見まじめそうな人が実は全然違う面を持っていたりする瞬間を見てほっとしたり、ドキッとしますよね。でもそれによって全体像がより明確になるとは、限らなくて、逆に分からなくなるのは 面白いことだと思います。

《Twins》より photo by Tanaka Yuichiro

《Studio》(2007)も同じような手法でオブジェを制作されていましたが《Twins》(2011)とはどのように異なるのでしょうか?

《Studio》(2007)は、自分のアトリエで制作している思考プロセスをその空間にある全てのオブジェを主に紙を使い再現し、その空間そのものを実物大で立体的なドローイングとして再現した作品です。スタジオでの制作の思考過程を再現し、それをセルフポートレイトとして見てみたかったのです。以前、友達からペインティングの色と、僕の衣服の色の組み合わせがとても似ていると言われたことがあってそこからヒントを得て作った作品です。自分のアイデンティティは、生活の中で無意識になされている表現だと思います。そこを鑑賞者と自分の接点にしたいと思いました。

《Twins》(2011)でオブジェのモチーフを選ぶときのポイントはあったのでしょうか?

仮に普段の生活の中で実際使っている机、テーブル、冷蔵庫のなかのキャベツまで、全ての物をレディメイドのスカルプチャーと考えてみます。今回の作品の場合、コラージュみたいな感覚でいろいろな【場所】からオブジェを持って来ています。実際に展示に使うオブジェのほとんどは、一つ一つ作品として紙等で作りかえてあるので、過去にあったオブジェ、そこに元々ないもの、想像上のもの等、事実上、どんなものでも展示する空間に持ってくることが可能になります。ある意味それは、実際の生活の中では不可能なフィクションの世界です。

今回、横浜での制作と平行して街中の写真を撮影しブログで公開していましたが、自分が日常生活でどういう物に着目しているのかを、写真を撮ることで客観的に考えてみました。街の中には、人間の行動や感情等、さまざまな表現が存在しています。写真を撮ることによって、意識されることなく展開されている風景、出来事と出来事が偶然に繋がって見える瞬間等を探して撮影しました。その意識もモチーフ選びに繋がっていると思います。

意識されることなく展開されている風景、出来事と出来事が偶然に繋がって見える瞬間をもう少し説明していただけますか?

直接自分の作品につながらないかもしれませんが、イタリアの映画監督のミケランジェロ・アントニオーニの60年代の作品や小津安二郎の映像の見せ方にとても影響を受けました。例えばアントニオーニの場合、一見ストーリーとは全く関係なさそうな映像が出て来たり、小津安二郎の映画にも、シーンの合間に登場人物がいない室内や外の映像がとても印象的に挿入されています。普段の生活の中にある一見空っぽのイメージ、存在しているのに普段あまり意識されていないようなどこにでもある光景、自分はこういったイメージにとても興味があるんです。「どうしてこんなイメージが自分の頭の中にあるんだろう」と思うことがあるんですけど、人間の頭の中にはおそらく、そういう風景がいくつも積み重なっているように思います。日記として普段カメラで撮影している野外の写真は、その無意識に頭の中に存在する風景と平行している現実のイメージだと考えています。記憶のイメージは、実際に見た光景だけではなくて、そこから誘発する架空の像だったり、テレビ、雑誌、インターネット等の媒体を通して流布されるイメージだったり、様々なんですが、そういうイメージが編み物のように幾つもの重なって存在していると思います。 頭のなかのイメージって、それが実際過去に見たものであれ、想像上の物であれ、現在いる場所やその時見ている物に常に反応しながらと生き物のように変化している物なのだと思います。
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横浜での滞在中に街中でとられた写真
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江口さんの作品空間は、私たちの日常に眠っている、意識することなく過ぎ去っている感覚をゆるかやに呼び起こすインタラクティブな空間である。その人柄からかその空間には軽やかさとユーモアが混じりあい、じっくりとそしてゆったりと違いを探し始めると時間がスッと過ぎてゆく。ありふれているものに囲まれながら、ありふれてなどいない。

12月のインタビューからすでに4カ月が経ち、江口さんのサイトを見ると、写真ブログが始まっていた。
日常な中の無意識を見つける江口さんのNYでの日常をサイトから垣間見ることが出来る。インタビューで何とか言葉に置き換えてもらった江口さんの中でのテーマや興味を是非写真の中で探してもらいたい。

http://www.satorueguchi.com/

江口さんの作品には次どこで出会えるのだろうか。楽しみである。

[江口悟 / Satoru Eguchi]
1973     新潟県生まれ
2004     スクール・オブ・ビジュアルアーツ、ファインアーツ科修了

ニューヨーク在住

 




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